[00:07.60]人間失格
[00:10.47]太宰治
[00:14.00]人間、失格。
[00:17.82]
[00:18.44]もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。
[00:24.49]ここへ来たのは初夏の頃で、鉄の格子の窓から病院の庭の小さい池に紅い睡蓮の花が咲いているのが見えましたが、
[00:39.13]それから三つき経ち、庭にコスモスが咲きはじめ、思いがけなく故郷の長兄が、ヒラメを連れて自分を引き取りにやって来て、
[00:54.74]父が先月末に胃潰瘍（いかいよう）でなくなったこと、自分たちはもうお前の過去は問わぬ、生活の心配もかけないつもり、
[01:09.59]何もしなくていい、その代り、いろいろ未練もあるだろうがすぐに東京から離れて、田舎で療養生活をはじめてくれ、
[01:22.66]お前が東京でしでかした事の後仕末は、だいたい渋田がやってくれた筈だから、それは気にしないでいい、
[01:33.66]とれいの生真面目な緊張したような口調で言うのでした。
[01:39.13]
[01:40.46]故郷の山河が眼前に見えるような気がして来て、自分は幽かにうなずきました。
[01:50.39]まさに癈人。 父が死んだ事を知ってから、自分はいよいよ腑抜けたようになりました。
[02:03.83]父が、もういない、自分の胸中から一刻も離れなかったあの懐しくおそろしい存在が、もういない、自分の苦悩の壺がからっぽになったような気がしました。
[02:26.71]自分の苦悩の壺がやけに重かったのも、あの父のせいだったのではなかろうかとさえ思われました。
[02:38.81]まるで、張合いが抜けました。苦悩する能力をさえ失いました。
[02:49.18]
[02:50.56]いまは自分には、幸福も不幸もありません。 ただ、一さいは過ぎて行きます。
[03:02.21]自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。
[03:19.58]ただ、一さいは過ぎて行きます。 自分今年、二十七になります。
[03:31.91]白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます。

人間失格
太宰治
人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。
ここへ来たのは初夏の頃で、鉄の格子の窓から病院の庭の小さい池に紅い睡蓮の花が咲いているのが見えましたが、
それから三つき経ち、庭にコスモスが咲きはじめ、思いがけなく故郷の長兄が、ヒラメを連れて自分を引き取りにやって来て、
父が先月末に胃潰瘍（いかいよう）でなくなったこと、自分たちはもうお前の過去は問わぬ、生活の心配もかけないつもり、
何もしなくていい、その代り、いろいろ未練もあるだろうがすぐに東京から離れて、田舎で療養生活をはじめてくれ、
お前が東京でしでかした事の後仕末は、だいたい渋田がやってくれた筈だから、それは気にしないでいい、
とれいの生真面目な緊張したような口調で言うのでした。
故郷の山河が眼前に見えるような気がして来て、自分は幽かにうなずきました。
まさに癈人。 父が死んだ事を知ってから、自分はいよいよ腑抜けたようになりました。
父が、もういない、自分の胸中から一刻も離れなかったあの懐しくおそろしい存在が、もういない、自分の苦悩の壺がからっぽになったような気がしました。
自分の苦悩の壺がやけに重かったのも、あの父のせいだったのではなかろうかとさえ思われました。
まるで、張合いが抜けました。苦悩する能力をさえ失いました。
いまは自分には、幸福も不幸もありません。 ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。
ただ、一さいは過ぎて行きます。 自分今年、二十七になります。
白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます。